Another World @作業用BGM紹介:http://www.youtube.com/watch?v=UeOltqdR6Xg (スマブラXより ボス戦闘曲1) 第27話.『近衛兵Mo.9 有毒の天使ノーネ』  4月22日 2:06 ―――  沼から離れた林の中。  不気味な色をした植物に囲まれ、花蓮は冷や汗を掻いていた。 「……中毒症状です。見たことの無い……。どうしよう、このままじゃ……。」  治癒のスペシャリスト、花蓮であっても、倒れた者の毒を治すことができないという。  毒には薬。毒の成分を中和させることのできる薬を使わなければいけない。  しかし、ピーターとリリトットが苦しんでいるのは、未知の症状だった。  凄まじい速さで体内を回り、内部を破壊する凶悪な毒。これを治癒することのできる薬を、花蓮は持ち合わせていない。 「花蓮ちゃんでもダメかよ……くそっ。」 「ごめんなさい……。せめて、この毒の成分が分かれば……。」  ピーターとリリトットは苦しみ続け、ミュラは目を覚ます気配は無い。 「うぐ……っ、うえ……。」  ピーターは不快感に耐え切れず、嘔吐してしまう。その吐き出したものには血も混じっていた。  それを見たリリトットも、芝に蹲り呻き声を上げた。  毒はじわじわと身体を蝕み続けているようだ。  周りに仲間達が集まっているが、成す術も無く慌てふためくのみ。  水を飲ませたり、背中をさすったりを続けるが、効果が出る気配は無い。  そんなことを繰り返していると。 「……おい、アレ……。」  ティアが気付く。  闇に紛れて、林の中を掻き分け巨体が近付いてきているのを。 「ちょっと待て。……何だよ、あのクソタコ。陸に上がれんのかよ!?」  ベイトの叫びは、その場の全員の気持ちを代弁していた。  蛸の化け物が器用に8本の触手を使い、陸を歩いていたのだ。  黒き触手が蠢き、芝生に群れるレジスタンス一行に迫る。  戦える者は、即座に武器を取った。  遠距離武器が使えるものは、ただひたすらに黒き巨大蛸のボディに攻撃を加える。  しかし黒き蛸は陸を這う触手のうちの4本を器用に振り回し、アタッカーを牽制する。  誰もが攻めあぐねていた。  “触手に触れたら、毒が罹る”という先入観が植え付けられた上、ピーター達被毒者の苦しみも間近で見ている為だ。  だから誰しも――無意識のうちに、蛸の化け物から距離を取るように動く。  決定的な一打を、与えることができない。 「どうしよう……どうしよう……このままじゃ。」  巨大蛸と交戦する面々の裏で、花蓮は懸命に被毒者の治療を続ける。  といっても、効果的な療法が無い以上、それは気休めに過ぎない。  その事実は花蓮本人が一番よく分かっていた。  この毒の正体さえ知れれば。  やがて、ある発想に花蓮は至り――実行する。  以前の彼女なら、間違いなく躊躇する方法であった。  花蓮は自分自身の価値を分かっている。そして、立場を弁えている。  それは、レジスタンスの仲間の内で唯一の治療士だということ。  故に、身勝手な行動で身を滅ぼすことは避けねばならない。  自分のミス一つで、戦力が崩壊してしまうのだから。  それでも、今の花蓮は、“この方法”が最善だと実感したのだ。  もう迷っている時間は無いんだ――  花蓮は、バッグを開く。  その中には治療行為に使う道具と薬品が一式揃っていた。  しかしその道具類の中には、およそ医療とはかけ離れた意匠の、不気味な文字が大量に描かれた一冊の本があった。  彼女が取り出したものは、それだった。 「ほんの少しでいいから、どうか、私に勇気を分けて下さい……ゼヴルトさん。」  花蓮はその本を持ったまま、戦陣に躍り出る。  巨大蛸の目の前で冷気魔法を放つノアや、十字架を扱うテイクよりも、更に前へ。 「なっ!? 花蓮、待て!」 「こ、これ以上近付くと――」  2人は慌てて彼女を止めようとする。  次の瞬間、巨大蛸は花蓮の姿を認め、4本の黒き触手を繰り出した。  それと同時に、花蓮は“詠唱”した。 「ビクティム・プロヴォーク!!」  普段は気弱な彼女の、凛とした声が響く。  その呪文を唱えた事により、場の空気が一瞬にして変動した。 「……花蓮?」  ノア達は一瞬、呆気に取られる。  しかし次の瞬間、巨大蛸の動きに異変が起きた。  繰り出した4本の触手を、4本とも全部、花蓮の身体目掛けて伸ばしてきたのだ。  瞬く間に花蓮は、その華奢な体躯を蛸の触手に絡め取られる。  そして凄まじい力で引き上げられる。花蓮は蛸の触手に持ち上げられるように、宙に浮かび上がった。  レジスタンスの仲間は叫び声を上げ、それを助けようとする。  だが花蓮はそれを制した。 「大丈夫! ……です! ……これで、いいんです……。」  全身を触手に雁字搦めにされ、両腕を辛うじて動かせる程度の花蓮が、弱々しく笑う。  彼女の左手には魔術書。もう一方の手には……薬品のビンやカプセル、注射器がありったけ握られていた。 「いいわけねぇだろ、花蓮ちゃん、君に何かあったら駄目なんだよ……クソッ、タコがぁっ!  離せ、花蓮ちゃんをっ!」  ベイトが叫び、ボウガンを使って巨大蛸を挑発する。  しかし巨大蛸は頑なに花蓮の拘束を続け、脇目も触れない。  まるで、花蓮以外の人間が見えていないようだった。 「プロヴォークです、蛸さん……そのまま、そのま、ま……。  安心して、私は、あなたを傷付けないから……。」  花蓮は恐るべき化け物である巨大蛸に対し、優しく声をかける。  そしてとうとう毒が回りだしたのだろう、彼女の声には苦痛の色が混じり始めた。 「……助けるから、みんなを……。」  そして花蓮は右手を伸ばし、自らの肩に注射器の針を打ち込んだ。 ―――  4月22日 02:10 ―――  中枢エリア・地下研究施設の通路にて。  先へ進み、施設を破壊せんとする少年キリューと、近衛兵の一人であるノーネの対峙。  キリューは通路の先に進みたいのだが、この場で足踏みを踏んでいる。  何故なら鋭く観察をしているからだ。……近衛兵、ノーネの変貌を。 「……見てなさい。末席にだって、難問が解けるってこと、証明しちゃうから……ね……。」  ノーネは既に少女の――いや、人の姿さえしていなかった。  華奢な肢体はドロドロに溶け、液状になり、通路の至る所に飛び散る。  そうして狭い通路をドロドロの液体で満たした。  その液体は青紫色に濁っており、狭い空間に刺激臭を漂わせている。  キリューは即座に、これを有害なものだと判断し、歩みを止めたのだ。  天井からゴボゴボという音がした。  見上げると、天井にまで飛散していた紫色の液体の一部分が蠢いている。  ゴボォッ、という音と共に、天井の毒液が盛り上がり、ノーネの上半身を形成した。  そのため、天井に逆さに張り付いたノーネの上半身が、床に立つキリューを見下ろしているという図になった。 「この毒はアデモスちゃんにあげた強力なやつ。触れればたちまち皮膚から吸収。  焼け付くような痛みと不快感、そして吐き気があなたを蹂躙するの。  ……胃酸を全部吐き出して証明終了だね、キヒヒ!」  彼女がドクターと呼ぶ、近衛兵セプタスに似たような笑い声を発し、ノーネの上半身は再び毒液に溶け込んだ。  そして次に、キリューの右の壁の毒液がゴボゴボと蠢き、そこからノーネが現れた。 「問題を解くのが私の仕事……。  いつものように……移項して除算して微分して因数分解して証明しちゃうよ?」  ノーネは数学用語を独特に使い、キリューを挑発する。  溶け出した少女の身体が毒液となり、満ち、通路をベトベトに汚していく。  このままではキリューはこの先に進めないだろう。宙にでも浮けない限りは。 「さー、諦めて退く? それとも致死の苦しみと戦う? どちらでもお好きな方を……。」  キリューは抜刀したまま先を見据え、動かない。  その姿を見て、ノーネは調子に乗ったように追撃をする。 「で・も……出てくる解は同じだけどね!?」  毒液の海から突き出たノーネの上半身が、グニャリと形を変え、小さく萎む。  そして一気に膨らみ、弾けた。  その動作により、通路には一瞬にして腐敗臭が満ちる。  まるで、ガスがポンプから噴出したように。  キリューは咄嗟に息を止める。この腐敗臭がする気体から危険を感じたのだ。  ノーネの上半身が、再び壁に形成される。  どうやら彼女は、毒液の海を自在に動けるようだ。 「空気も汚染させたよ。もうあなたは呼吸もできない!  キヒヒ! 一吸いで脳の細胞が麻痺する強力なやつ!  この通路は長いよ? 汚染地帯を抜けるには3分は走らないとね……それも、無呼吸で!  どう足掻いたところで、あなたは毒塗れになってQ.E.D!!」  何処からどう見ても、キリューは詰んでいる状態だ。  呼吸を封じられ、毒液で進むことも叶わない。  ――彼の事を知らない他者が見れば、そう思うだろう。  腐敗臭と刺激臭に満ちた通路に、ノーネの笑い声だけが響く。  その中でキリューは静かに剣を構え、逆手にスイングした。 「……なに? え? ……うそ。」  その剣筋は、床に満ちる毒液の水面をなぞった。太刀筋すら見切れないほど、速く。  ……すると、毒液が飛沫を上げ――左右に分かれ、床が見えた。 「ま、まさか、“斬れる”の……?」  キリューの高速の剣は、液体すら切り分ける。それはたった一瞬で元に戻るが……キリューの歩みは『一瞬』より速い。  まるで神話のモーゼが海面を割ったように。  毒液の海にできた“道”を、キリューが突き進む。  斬る。進む。斬る。進む。斬る。進む。斬る。進む。  これを繰り返し、ザブザブと前進してゆくキリュー。  ノーネの顔から笑みが消えた。  ――で、でも大丈夫だ。毒液を乗り超えても、汚染された空気からは逃げられない!  散りばめられた毒液を全て掻き分け、キリューはその向こう側へ到着した。  彼の通った跡は、元通り毒液の海が広がっている。  そしてキリューは走り出す。呼吸をせずに。  ……ここまで来て、ようやくノーネは失敗を悟る。  単純に、ノーネはキリューという少年の事を知らなかっただけなのだ。  剣士・キリューが持つ本当の武器は、その素早さ。  普通の人が3分掛かるであろう道を、キリューは1分以内に走り抜けることができる。 「ありえない……こんなの、どうあがいたって公式に当てはまらないよ……。」  誰か来て……! ノーネは叫ぼうとした。が、自らの最大の過ちに気付く。  応援を呼ぼうにも、唯一の通路はノーネ自身が毒で満たしてしまった。  この場に近寄ることは行動不能を意味する。よって、何者も駆けつけることはできない。  ノーネは悲痛な叫びを上げると共に、元の少女の姿を取り戻す。 「うぇぇぇぇぇぇぇぇん、ドクタぁぁぁぁぁぁっ、やっぱり、やっぱり、  No.9には無理ですぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!」  そして、乱れた白衣も直さぬまま一目散に逃げ出したのだった。  そんな少女を尻目に、キリューは走る。  ……そして、通路の先の扉に到達した。  最後まで、彼は無口で無表情なままだった。  何かを呟いたかどうかなんて、誰にも分からない。  ――僕達の、邪魔はさせない。  そう、呟いたのかどうかさえ。 ―――  クインシアは首を横に振った。  ノーネ如き“残りカス”の近衛兵が、侵入者1人をどうにかできるビジョンが見えない。  イグルス、希更、ハットの3人は、黒き狼に囲まれていても毅然と立ち続けている。  もはやこの侵入者一行は、ゴッディア軍よりも優位な立場にある。  近衛兵達にとって、3人を始末することは容易い。  しかしそれでは、施設の奥に突き進んだキリューを止める術が無い。  キリューを放置してしまえば、この施設は全てが塵と消える……ゴッディアにとって、水の泡だ。  下品に歯軋りをするクインシア。  その彼女のドレスの肩に手をかけたのは、デュオだった。 「もういいじゃん。……応じるぜ、取引に。」 「なっ……!」  クインシアは驚いた顔で、デュオの手を振り解く。  しかしデュオはニヤニヤしている。仮面の奥からもそれが伝わってくる程に。  イグルスが言う。 「では、私達がエレベーターで地上に出るまで、そこを動くな。  このエリアキーはエレベーターの中に置いていく。エレベーターが地下へ戻ったら回収しろ。」 「オーケーオーケー。……ただ、キーを持ち逃げされちゃ敵わないからな。  カルデオを監視に付けるぜ。何かあればエレベーターを停止させ、君達を殺す。」 「……分かった。それでいい。」  デュオとイグルスの取引が成立した。  近衛兵のカルデオが歩み出て、イグルス達3人の後ろに着く。 「さ、早くエレベーターに乗ろうよ。……急いだ方がいいでしょ? 僕達も君達も死ぬ前にさ。」 「ああ。……。」  イグルスは、そのカルデオという男が近付いたことにより、感づく。  澄んだ瞳と優しげな笑顔。しかしそれと同居する、強大な威圧感。  この近衛兵が監視の役割を担う理由が手に取るように分かった。  ……気を抜けば、全員が殺される。  イグルス達はエレベーターに乗った。  そして、素直にエリアキーを取引をする……。 ―――  イグルス達3人が去った後の、研究施設の一室。  勝手に取引をしたデュオに対し、クインシアが声を荒げて噛み付いていた。 「……どういうことですの。デュオ。……セプタスも、カルデオも!  貴方方のお力ならば、侵入者など一捻りだったはずですのに……。」  セプタスは肩を震わせ、イヒヒと笑う。 「……余計な行動なぞシタくないね。ただでさえ研究疲れが溜まっているのに。のにッ!  イ、イヒヒ。」  まるで不安定な精神を抑え込むかのように、全身をカタカタと微動させて、崩れた言語で笑う。 「というか、……君らの仕事ダロウ? しっかりしてくれないと……ネェ。」  そして唐突に真顔になると、いきなり踵を返して部屋を出て行った。  実験台が並ぶ部屋の中に、クインシアとデュオが2人。  影の兵は引き上げさせていた。  クインシアはデュオに詰問する。  近衛兵が全員その気になれば、キリューを止めることはできたはずだ。  なのにそれをせず、クインシアに恥をかかせた。彼女はそれに立腹しているのか。  それに対し、デュオは仮面の上から額に手を添え、溜め息をひとつ吐いた。  そして彼女を嗜めるように、穏やかに言う。 「だってよ、今の審判係はオレだろ? 駄目だぜクインシア。……あんまりでしゃばるのは。」  そして、右手の親指と人差し指で円を作り、クインシアの額に近づける。 「それと、……お上品なお顔が台無しだぜ。」  デュオはクインシアに軽くデコピンをした。  彼女は一瞬驚いた顔になるが、すぐに口を噤んで回れ右をした。  その際、銀色の長髪が上品に靡く。彼女は荒ぶる感情を隠した。 “聞こえる? デュオ、クインシア。”  2人の脳内に、直接声が響いた。  それはカルデオの声。念話の魔術で一方的に語りかけているのだ。 “お、どうだ?”  といっても、念話の魔術はクインシアとデュオも使うことが出来る。  つまりお互いに念話を使うことで、しっかりと対話が成立するのだ。 “約束通り、彼女らを逃がしたよ。で、エリアキーをちゃんと回収した。  すぐにキリューとかいう侵入者を追い出した。これでもう安全かな。” “そうかそうか。一件落着、だな。”  デュオの言葉は皮肉に近い。  まるでこうなることを狙っていたかのように振舞っていたのだから。 “……ま、そうだね。別にこの程度の研究施設は惜しくないんだけど。  更に地下に踏み入るようだったら……彼女らの運命も決まってたろうね。” “運命か、んー、いいフレーズだ。” “そうそう。デュオ、今晩からだろう? ……準備しなくていいの。” “今晩?” “キミが引き継いだんだろ、「審判」。” “あ、そーね。……忘れちゃいないさー。  1日に1度、オレは運命のサイコロを振る。それの出目次第で全てが決まるさ。  「運」と「才能」を試すオレの審判……素敵じゃないか?”  審判の実行者がトリードからデュオに代わった。  ということは、当然そのルールも異なってくるということ……。  デュオは自分に酔いしれるように、同胞にそれを語る。 “そこはキミに任せてるよ。……僕達は待とうじゃないか、一体化の秘法の完成を。” “ん? あー、そんなのもあったっけな。そいつはセプタスとノーネに言ってくれよ。  オレは変えるぜ。……このAWの姿をな。トリードなんかじゃ出来なかった事をな……。” “「我が偉大なる神のために」?” “ああ。「我が偉大なる神のために」。”  そこで両者は笑い、念話は途切れた。 「っさーて。タダで逃がすにゃ惜しいんだよな、あいつら。  クインシア。クインシアよぅ。」  デュオは振り返ったが、そこにクインシアはいなかった。  どうやら既に場所を移したようだ。 「……素早いことで。まぁいいや。……イグルス、キリュー、ハット、希更、……つったか。  あいつらの監視はBiaxeに任せるか。」 ―――  4月22日 02:15 ―――  暗闇と星空。  沼地エリアの林の中で、黒き巨大蛸の触手に捕らえられながら、花蓮は戦っていた。 「……ぅ……っく、……ぅぅうぅう…………ッッ!」  花蓮の首筋から肩にかけて、何本もの注射の痕がある。  それは全て、自分自身の右手で打ち込んだものだ。 「ぇぁあ……ぃ……これ……は…………ぉえ……。」  とてつもない形相で、苦しみと戦いながら、その毒の正体を理解する。  一体何者が、どのように作り出したのか。想像することすらおぞましい、その悪意の塊を跳ね除ける為に。  花蓮は言葉にならない言葉を絞り出し、また一本の注射器を肩に突き刺す。  その中に篭めた薬剤が、花蓮の血液に浸透し、彼女の体内で毒とぶつかり合う。  そう。彼女は彼女自身の身体で、毒の抗体を作っているのだ。  受けた毒の成分を分析し、それと拮抗させる薬剤を体内に取り入れ、相殺し、耐える。  それを短時間で繰り返し、この未知の毒物に対する特効薬を開発しようというのだ。  それは幾百の痛み・苦しみとの戦い。  頭痛がすれば、頭痛を抑える薬を。  吐き気がすれば、吐き気を抑える薬を。  体温が上がれば、解熱薬を。  それを何度も繰り返す。  いつもの静かで不安げな様子の花蓮は、そこにはいない。  いるのは、痛みと苦しみで表情を険しくし、汗と涙と嘔吐物で顔をグシャグシャに汚した、不屈の少女のみだ。  仲間達は手を出せない。何故かは分からないが、巨大蛸が花蓮を捕らえたままビクとも動かないのだ。  それに――花蓮のやろうとしていることを理解したら、それを邪魔することなんてできない。  苦しんでいる仲間の為に、形振り構わず自らを犠牲にできる者の邪魔なんて。  黒き巨大蛸の触手を伝って、更に花蓮の皮膚に毒が染み渡る。  もう何度目かは分からない程の薬剤投与。  ――いつ失神してもおかしくない。  まだか。まだ抗体はできないのか。仲間達は思う。  それほどまでに、強力に造られた毒なのか……。 「…………ゲホ、ゲホゲホゲホッ!」  花蓮は咳をした。  その飛沫は、赤い。  もう駄目か? と誰もが思った。  その瞬間―― 「……ケホッ。ゼェ……ゼェ……楽に、なってきました……。」  花蓮が口を利いた。  血を吐いた事により気道が楽になったようだ。  そして何より、そう言う彼女の表情は柔らかくなっていた。 「……どうやら……できたようです、抗体。  この毒の成分も把握しました……ケホッ。……すぐに治療薬を作りましょう……。」  蛸の触手は引き続き花蓮の華奢な身体に絡んでいる。  その触手からは確かに毒液が分泌されている筈だ。  しかし花蓮は顔の汚れを拭うと、優しく唱えた。 「もう、いいですよ……。」  その言葉は魔法のように響く。すると、蛸の触手が緩み始めた。  ふわりと一瞬だけ、巨大蛸を縛り付けていた意識が解けるように。  ――それから、巨大蛸が再び花蓮を襲おうとするまでの一瞬。  触手の力が緩んだタイミングで、ノアの冷気魔術とベイトのボウガンを始めとした諸々の攻撃が蛸を襲った。  全員が全員、その時を待っていたのだ。  急激に受けた衝撃により、蛸の触手の間から花蓮がポロリと零れる。  その身体をすかさず受け止めたのは、ティアだった。 「大丈夫?」 「はい。……へ? あ、えっと、いえ! その!」  花蓮はティアの両腕を跳ね除ける。  またセクハラ紛いの事をされるかもしれないと思ったから?  それとも顔や服が汚れた今の自分に触れて欲しくないと思ったから?  いやいや、他の人が見ている中で、というかこんな急ぎの場面で変な事を考えている場合じゃないというか――  花蓮は赤くした顔を両手で塞ぐ。  ……どうやら、身に異常は無いようだ。完全に体内の毒を殺したらしい。  仲間達も、その様子を見て安堵する。 「……アレ、どうする?」 「生半可な攻撃は効かねぇな。……となれば。」 「よし、逃げるぞ。」  ノアとベイトの指示で、全員はその場を離れる。  倒れたピーターやミュラ達も担いで移動させ、とにかく巨大蛸から距離を取る。  全員が生きて湖畔エリアに辿り着く事が先決だ。  花蓮の治療薬さえあれば、もうあの化け物に用は無い――!  そうして、レジスタンスの一行は命からがら沼地エリアを脱出した。 ――― 「……危なかったな、全く。」  ハットが我が身を振り返る。  さっきまで自分達はどこにいて、誰に会い、何をされていたのか。  イグルス達4人は、中枢エリアを駆け足で後にしていた。  一歩間違えれば間違いなく始末され、今頃は奴らの言う神の元へ旅立っていただろう。 「色々と懸念すべき事はあるが……今は退こう。」  キリューも無事に合流した。  どうやら中枢エリアキーで無事に脱出させられたらしい。  イグルスは山脈の先を見据える。  そして、レジスタンス達と交わした約束を思い出す――  結局、ゴジャーもWarsも死んでしまった。  分かってはいた事だ。……分かってはいた事なのだが。 「イグルス殿。」 「何だ、准尉。」 「異常は無いでありますか? あの女近衛兵に受けた精神攻撃……。」  希更に心配され、イグルスはあの不快感を思い出す。 「今は平気だ。あれは……脳髄に虫でも捻じ込まれたような不快感だったな。」  クインシア、か。恐ろしい相手だった。  これから先、どうゴッディアに対抗したものか――  この世界に眠る“罪”は暴いた。  次に必要なのは――それから逃れる方法を探す事。 「退こう。皆、体勢を立て直す。不落の地、雪原へと。」  4人は雪原エリアに向かって歩みを進めた。  彼女ら4人の後を、一機の偵察ヘリが追っているのも知らず……。 ――― 「いけませんわ。あの男などに甘く見られては……。」  中枢の管理塔の一室で、クインシアは呟く。  今回の一件で、分かった事がたくさんある。  危険なイグルス一行の存在。そして行動原理の読めない味方。  研究施設の情報が暴かれた程度では痛くも痒くもない。  しかし、この先の計画が崩れるような事態は避けねばならない。  全ては……このAWを偉大なる神に明け渡す為に。 「すぐに次の手を打たなくては。……わたくしの計画に、狂いはあり得ませんのよ……。」  第28話へ続く