Another World @作業用BGM紹介: 第29話.『朝を迎える者達』  4月22日 6:37 ―――  ガキンッ! キンッ! ガンッ!  朝日に照らされる中、何かが激しくぶつかり合う音が響く。  ぶつかり合っているのは腕と腕。拳と拳。しかしそれで発せられる音は金属音が混じる。  ここはAW有数の楽園、花園エリア。  多数の診療所が存在するこの癒しの地で、一対一の戦闘が行なわれていた。  海が見える丘の上。人が住まう場所から大分離れた大地。  そこを縦横無尽に凄まじい速度で駆け回るスカーフを身につけた赤髪は、ゴッディアの近衛兵の一人であるソロ。  対するは、全身をロボットのような外見のアーマーで覆い、身軽な格闘術を放つ人物。 「花咲く大地に害なす者よ……神の名を騙るその暴虐!  このシープ・シープ! 許してはおけん!」  全身が包まれているため男かどうかは分からないが、発する声は若々しい男のものだった。  男は向かってくるソロに対し名乗り口上を上げると、アーマーから銃火器を取り出し発射する。 「うおおぉぉぉっ! パワー・バーン!!!」  無駄ともいえるその発声力と共に大量の銃弾が発射され、近衛兵ソロはそれを真正面から浴びる。  ――だが。ソロは右手の拳で爆風を強引に突き破り、ダメージもものともせずシープに突撃する。 「ぐぅっ! しまった!」  シープはソロの体当たりを食らい、弾き飛ばされる。  しかし即座に受身を取り、立ち上がると同時に反撃する。  体当たり後のソロの隙を狙い、その背中に渾身の拳を叩きつける! 「パワー・パンチッッ!!」  ドカッ!  シープに手応えはあった。しかしソロは仰け反るものの、全く怯む様子は無い。  冷酷な瞳でシープを睨み返し、左拳の仕込み刃を展開する。  マズイ! と咄嗟の判断でシープは飛び退くものの、ソロは簡単にそれに追いつく。  シープは死に物狂いで、ソロの左拳の刃を掴み、その力を受け流す!  アーマーを刃が貫通し、シープの手が傷付いたが、致命的なダメージは避けることができた。  そして無防備になったソロの腹部に、再びパンチをお見舞いする。  1発、2発。叫びながら、ソロの身体が吹き飛ぶまでに何度も何度も打つ!  ドッ、ドッ、ドドド、ドッ!  ソロは拳圧に吹き飛ばされ、腹部を押さえてシープを睨む。  超人のスピードを持っていても、捨て身の体術に対しては相性が悪いのだろうか。  ソロが体勢を立て直す頃には、シープも体術の構えに入っていた。  シープは手の傷が痛むが、その痛みを懸命に隠し、対峙する。  ザワザワ……  突然、シープの耳に聞き覚えの無い奇妙な音が飛び込んでくる。  シープはソロに注意を払ったまま、背後を振り返った。  すると何処から沸いたのか、鰐型の影の兵が数匹にじり寄って来ているではないか。  黒き鰐と近衛兵ソロ。挟み撃ちにされる形になったシープは行動を余儀なくされる。  鰐の武器は強靭な顎。それに食らいつかれることは即死を意味する。  シープは速攻で、その死神の鎌を破砕することにした。  鰐の脳天へのかかと落とし。顎を塞ぐどころか脳天までも破壊する一撃を与え、まずは一匹の鰐を倒す。 「パワー……エルボー・ドロップ!」  そして間髪入れずにシープは体勢を崩す。肘を地に突き出した状態で。  隣にいるもう一匹の鰐の頭上に倒れ込み、口を開く暇も与えずに潰す。  そして最後に残った鰐は一匹。  その鰐は顎を大きく開き、牙を立てて威嚇をする。  だが、シープはその鰐の凶悪な上顎を掴み上げると、それを地面に叩き伏せると共に伏せた。  刹那、シープのアーマーに鋭い何かが掠る。  それはソロの刃。  鰐の相手に集中していたシープの隙を突こうとした一瞬だった。  間一髪でシープは伏せ、その一撃は彼の頭上を空回りしたのだが。  ソロの上体に隙が出来る。シープはその間に鰐の尾を両手で掴んでいた。 「うおおおぉぉぉっ!!」  豪快な叫び声と共に、シープは鰐の尾を持ち上げ、胴体を振り回す。  そして遠心力を加え、ソロへ全力で叩きつける!  鰐の姿を模った影の兵は軟弱に造られてはいない。  ソロの強靭な身体を弾き返す程度の砲弾となり、彼にとって大きな隙を作る。  そしてシープも刃を抜いた。アーマーに搭載されていた必殺の武具。  シープが構える。ソロも受身を取りつつ拳を構える。  先に距離を詰めたのはシープ。ソロは体勢を整えきれず、迎撃すら精一杯の様子。  シープは叫ぶ。 「パワー・ソード・水平切り!!」  必殺剣を横に構えるシープ。  軸足で踏み込み、ソロを正面から――斬る!  ガ……キンッ! 「な……にっ!?」  しかしシープの水平切りが太刀筋を描く前に、それは止まる。  ソロの左手の刃がそれを受け止め、流したのだ。  シープは愕然とする。……何故?  ソロの右拳が構えられる。  ――ああ、そうか。  絶望的な光景を前に、シープは理解する。  繰り出す技の名前を叫べば、相手にも何をするか読まれてしまうということか――  ドンッ!!  ソロの振動する拳がシープの腹に炸裂し、衝撃がアーマーを突き抜けた。  シープの身体は数メートル吹き飛ぶ。  そして草のカーペットを乱しながら転がった。  ソロは地面をのたうつシープにゆっくりと歩み寄る。 「く……ここまでか……。正義が悪に屈するなど……あっちゃならない……ぐっ……。  花園の皆よ、すまない……守り切ることが……できなかった!」  シープは自身の敗北を悟り、依頼主への懺悔を口にする。  ソロはシープの脇にしゃがみ込むと、彼のアーマーを弄り出した。 「う……おお……お?」  妙だ、とシープは思う。このゴッディアの刺客は、自分を殺すつもりではないのか?  しかしアーマーを触れるソロの手からはそんな殺意の欠片など伝わってこない。  やがてソロはシープの身体から何かの鍵を抜き取ると、それを握り締めて立ち上がる。  ソロはあれだけの戦いを繰り広げたというのに、疲労一つ見せる素振りは無かった。  そして東の方角を見据えると、飛ぶように走り去ったのだった。  その場にポツンと残されたシープ。  幸い、受けた傷は致命傷にはなっていない。自力で歩ける程度の負傷だった。  シープは上体を起こす。  ……そして、自らのアーマーから抜き取られた鍵のことを思い出す。 「あれはこの前、拾った樹海エリアキー。……奴の目的は、エリアキーだったのか……?」  釈然としない思いを抱えながら、シープは診療所に向かってヨロヨロと歩き出した。 ―――  4月22日 7:12 ―――  ズガァン! ドォン! ガガァン!  狭い洞窟の通路内に複数の爆裂音と、瓦礫が崩れる衝撃音が広がる。  それと同時に洞窟の壁が次々に崩され、瞬く間に洞窟の空間そのものが形を変えた。  ここはAWの北端に位置する洞窟エリア。  このエリアの地上は山肌の大地のように、デコボコとして荒れ果てた地形になっている。  しかしエリアの各所に空いた穴から地下に降りると、そこは神秘的な自然の迷宮。  狭くも広大な、入り組んだ通路で構成された巨大なトンネルが存在している。  このエリアには、他のエリアにあるような人の集まる集落は無いのだが、  複雑な地下迷宮には人が生活できるだけの空間が存在している。  陽の目を見ることのできない人間がこの迷宮に隠れ住んでいる、という噂まであったようだ。  爆裂音が止み、土埃が暗闇の迷宮に舞う。  激しい技により破壊活動を行なっていた3人の男が、自分らの壊した洞窟の通路を見る。 「……これだけやれば、あのヘリも俺らを追って来れないだろ。」 「これで晴れて自由になれたってわけか。どうですかね、クシャナ様。」  3人の男のうち、地味な黒い服装をしている2人が、先頭に立つ男に声をかける。  クシャナと呼ばれたその男は、威風堂々とした佇まいで周囲の気配を探っている。  大柄で、肩からかけた赤いマントを揺らし、天に向かって激しく逆立たせた炎のような頭髪。  振り返らずとも、その猛者のオーラは十二分に感じさせた。  クシャナは2人の男に背を向けたまま言う。 「……ふむ。あの不快な機械音は聞こえんな。良いだろう。ご苦労だったな、貴様等。」  2人の男は口元だけ笑う。  ご苦労、という言葉もこの男からは皮肉に聞こえる。  洞窟の壁を破壊したのは、ほとんどクシャナの技能によるものだからだ。  あの人知を超えた力……どう引っくり返っても、2人が敵う筈が無い。 「管理人の捜索などと。下らない仕事をさせるものだ……ゴッディアめ。  これでは、わざわざ異次元から招来させられた価値も無い。」  不満の声を漏らすクシャナ。その背に、男の1人が話しかける。 「やはり、神……に逆らうおつもりで?」  クシャナは笑う。 「無論だ。……この大地には興味がある。神がいらぬと言うのなら、偉大なる王者であるこの私が貰い受けるとしよう。」 「そうです。クシャナ様はゴッディア部隊長に収まる器じゃありませんぜ。」  もう1人の男が即座に煽てる。  クシャナはそれが耳に届いた素振りは見せず、洞窟の奥へ向き直る。 「戦力を集めるぞ。あの紛い物の組織を平伏せさせるだけの力をな。」  そう言い、クシャナは背後の2人に声をかける。 「貴様等も、私の配下になるか?」  2人は少し間を置き、答えた。  躊躇したのではない。クシャナの放つ威厳に圧されたのだ。 「「はい。」」  その返事を聞き、クシャナは笑いながら洞窟の奥へと歩いていった。  それを見ながら、配下となった2人の男は小声で話し合う。 「……こ、これで大丈夫なのかよドルフ。」 「何か不安なのか、ゼシー。見ただろ、クシャナのあの力。」 「ああ。……噂じゃ、異次元から来た精鋭らしい。凄いぜあの能力は。」  ドルフとゼシーは、クシャナに聞こえないように気を配りながら喋る。 「あいつに付きゃ、オイシイ思いできるぜきっと。……ゴッディアとか近衛兵とか、訳ねぇや。」 「そ、そうか? ……まぁ、俺もこのままゴッディアに付くよりかはいいと思うけどさ。  だからといって怖いぜ、報復とかされそうで。」 「大丈夫だ、クシャナって奴は部下には優しいらしい。忠誠さえ誓っとけば守ってもらえるぜ。」 「……それもそうか。」  2人の男はクシャナに付き従うように歩き出す。  こうして、ゴッディア内部から反抗勢力が誕生した。  洞窟が崩れたことにより、追っ手も撒いた。  今、この事実を知るものは誰もいないように見えた――  ガラッ……。  クシャナ達が崩した瓦礫の中から、ズルズルと何かが這い出てくる。  それは大量の血を流しながら、土の上をゆっくりと這う。  一見、人間の形をしていないように見えたそれは、人間の少女だった。  右腕を肩から欠損し、左右の足も膝の下から先が千切れ、瓦礫に血の赤を吹き付けている。  辛うじて生きていたが、その出血量ではすぐに死んでしまうだろう……。  と、普通はそう判断できるのだが、少女の出血はすぐに止まった。  そしてみるみる傷が塞がり、欠損した四肢が徐々に再生していく。  数分と掛からずに、右腕と両足は指の先まで健常な人間と変わりないまでになった。  少女は生え変わった両足で立ち上がり、額に付いた血を拭う。  四肢が引き千切られたことに伴い、衣服も短く千切れてしまったがそれを気にする様子は無い。 「……死ぬかと思った…………。」  ポツリと呟き、セミロングの髪についた土や埃を払う。  さっきまで酷い目に合っていたとは思わせない程の落ち着きぶりだった。 「…………クシャナ……。……ゴッディア……。」  クシャナ達の破壊行動に巻き込まれていた少女は、瓦礫の中から彼らの会話を聞いていた。  その名前を記憶に刻み付けるかのように改めて口にする。  少女は振り返り、自身が埋もれていた瓦礫の中を漁る。  少しして、一本の太刀を抜き取った。  その太刀の鞘袋を取り、折れていないことを確認する。  そして少女は身に付ける。鍔の裏側に小さく『サキュ』と名前の彫られたその太刀を。  そして、少女は洞窟の奥に向かい、やがて暗闇に溶け込んだ……。 ―――  4月22日 7:44 ―――  平原エリアを駆け足で突き進む少女の影が、朝日に照らし出される。  目的地も無く闇雲に、まるで逃げるように隠れながら平原を歩く。  黄色い服とミニスカートの格好は、それなりに目立つ。  物陰を見つけては隠れ、背後を振り返っては何かを確認する。  少女――キロンは右腕、そして右肩を庇っていた。  グルグルと巻かれた包帯の上から握ったり、抓ったりしてしきりに感覚を確かめる。  しかし肩から下の感覚が無い。麻痺したように動かず、どう足掻いても力が入らない。  神経が完全に焼き切れているのだ。  キロンは口元からギリリという音を出す。それは悔しさから来る歯軋り。  あの戦いを思い出す度に、忌々しい記憶が精神を揺さぶる。  憎きレジスタンスの連中。……そしてあの臆病者の顔!  復讐してやりたい。一人残らず地面に捻じ伏せてやりたい……!  しかし復讐しようにも、その為の武器は全て奴らに奪われてしまった。  ……例え持っていたとしても、今の使い物にならない利き腕では引き金すら引けないのだが。  その事実も、彼女を大いにイライラさせた。  どうしてこんな中途半端な状態で生きていなければならないのか。  あの時死んでいたら、こんな悔しい思いなどせずに済んだのに。  彼女の脳内は混乱する。精神が不安定になっているようだった。  ……いや、あんなカビ臭い森で死ぬなんてまっぴらゴメン。  そもそも、あの連中に殺されるなんて想像しただけで吐き気がする。  いっそゴッディアの奴らに役立たずとして処分された方がマシ。  絶対に、その方がマシ。  この憎い世界をぶち壊したかった。この私の手で。  ……でも今はそれを願えば願うほど虚しくなる。  もう私の手は動かないのだから。  キロンは疲弊した精神で思い出す。  ……あの男。私を逃がしたあの男。  ゴッディアの部隊長のクセに、どうしてレジスタンスと共に行動していたのかは分からないけれど。  今はほんの少しだけ感謝をしておこう。  あの男のおかげで、私は死に場所を選ぶことができる。  キロンは髪をかき上げ、目を閉じて暗く笑った。  ――ああ、自分自身が、大っ嫌い。  直後。唐突に、キロンの背筋を悪寒が駆け上った。  背後を振り返る。誰かいる? そこには樹木があるだけだった。  一本の太い樹木が、私の影を飲み込んで聳え立っている。  ……影?  違和感を感じた。その樹木の作る大きな影に……。  それに気付いた瞬間、少女の呼吸は強制的に止められた。 「……! …… ……!!」  キロンの首に、いつの間にか縄のようなものが巻きついている。  それは樹木の影から伸びているように見えた。  それが何なのかを確認している余裕は無い。  少女は窒息してしまう前に、左手を使って首に絡みつく縄を振り解こうとする。  しかし片腕だけの力ではどうしようも無かった。  呼吸ができず目の前が霞み、意識が途切れかかる―― 「……! プハァッ!」  キロンは一瞬死を覚悟した。しかし唐突に、首の縄はいとも簡単に解けた。  いや、外れたと言うべきか。何者かの手によって操られて。 「ハァッ、ハァッ……ゲホッ、ゲホゲホッ!!」  無我夢中で空気を吸うキロン。一体何が起こった!?  視界が正常に戻った時、彼女は背後を振り返る。  そこには、黒きローブを纏った見知らぬ少年が立っていた。  その少年は、闇よりも深い黒色に染まった瞳で、残酷に笑って見せる。  手には鞭。キロンの首を縛った縄の正体は、おそらくそれだ。  そして、髪から足元まで真っ黒な少年は、目の前の死に掛けた女に対して、嘲笑混じりに言い放つ。 「ごめんごめん。……まさかそこまで弱っちいとは思わなかったんだ。  右腕どうしたの? 使わない余裕があるんだねぇ、死に掛けたっていうのに。  ……可哀想だから、遺言考える時間だけあげるよ。」  何を言っている!? キロンは理解が出来なかった。  影に紛れるように唐突に現れたこの少年。一体何者なのか。  分かっているのは、この少年が自分を殺そうとしていることだけだ。 「10秒だけね。よーい、スタート。」  少年は手を鳴らす。  キロンは痛む首の絞め跡を擦りながら、頭を回転させる。  動かない右腕。手元に無い武器。……如何にして生き延びるか。  歯を食いしばり、逃げの一手を打つ。  しかしここは平原エリア。平坦な地形の上、身を隠せる場所も少ない。  その上、あの不気味な少年は影に紛れて姿を消す事ができるようだった。  6……5……。少年の口から刻まれるカウントは少なくなってゆく。  重荷の右腕をもう片方の手で持ち上げ、キロンは少年に背を向け、十分な距離を取った。 「4……。3……。2……。」  しかし彼女にとって、少年に背を向けた事が過ちとなった。  少年はカウントが終わらないうちに、右手に握った何かを振り被ったのだ。 「1……!」  カウント0を宣告する前に、少年は残酷な笑みと共にそれを投げ付けた。  正確無比に飛んだ2本のそれは、逃げるキロンの両足の腿の裏にプスリと突き刺さった。 「っく……!?」  キロンは唐突に両足が痺れるような痛みを感じ、力を失って膝を付き、倒れた。  少年のケラケラした笑いがキロンの耳に聞こえる。そこで初めて彼女は何かをされた事に気付いた。  腿の裏に刺さった何かを乱暴に抜き取る。  見ると、それは細い針――いや、木でできた楊枝のような形状のもの。  毒か何かが塗ってあったのか? 足の筋肉が硬直したように痺れ、なかなか消えない。 「どこ行くつもりなの? 10秒経ったよ! 聞かせてよ、君の遺言をさ。」  膝を付いて倒れるキロンの背後に少年の気配が近付く。  空気を切り、しなる鞭の音が徐々に大きくなる。 「僕はただ、君の気持ちを知りたいだけなのに……。……君とは分かり合えないのかな。それは悲しいよ。  今どんな気持ち? 僕のことどう思ってる? ねぇ。ねぇぇ。」  気味の悪い声で擦り寄ってくる少年。  例えるなら、悪意しか含まれていない声。  聞けば聞くほど人の心をマイナスに揺さぶる“嫌”な声色。  少年の両手が巧みに鞭の先端のうねりを操る。  キロンは上半身だけ振り返った。少年の位置からはまだ距離がある。  しかし、彼の鞭は既に振り下ろされる場所を定めていた。恐るべきリーチの長さだった。  その鞭が、振り下ろされるまさに直前。少年は呟く。 「……じゃ、さよなら。」  ビュッ!  そして、空気を切り裂く鋭い音がした。  バチン、というあまりにも大きい音が耳を打つ。 「…………。」 「……あれ?」  少年が見つめたキロンの目は死んでいなかった。 「バッカじゃない? 女相手に何ねだってんの? 気持ち悪いわ、アンタ。」  キロンの右腕に鞭の先端が絡んでいた。  キロンは自身の使い物にならない腕を持ち上げ、盾にし、少年の一撃を防いだのだ。  そしてそれだけではない。  腕に鞭の先端が絡んだ事によって、少年の鞭を操る両手を逆に奪った。  キロンは右腕を身体で包みながら上半身を捻る。  すると、少年の身体が鞭を通して引っ張られ、よろめいた。 「うわわっ……。」  少年は情けない声と共に上体が引っ張られる。  すかさず両手で握った鞭を手放し、体勢を維持した。  鞭の柄が地面に落ちる。  キロンは、右腕に絡んだ鞭の紐を手繰り寄せる。  右腕は赤く腫れ、皮膚が裂けているが、痛みの感覚は無い。  その傷に構うこと無く、キロンは左手で奪った鞭の柄を握った。  片手で使いこなす程に鞭の扱いができる訳ではないが、今は武器があることすらありがたい。  キロンの両足はまだ痺れが残っていたが、立ち上がれる程度には回復した。  少年は武器を奪われ、呆然とした表情でキロンを見る。  その少年の顔を、キロンは憎しみをたっぷり浮かべた表情で見返す。  それはさっきまでとは違う、死から逃げ惑う少女のものではなかった。  鞭を持ったキロンが取った行動は一つ。  左手一本で、円を描くように鞭を回す事。  長いリーチの紐がバチンバチンと地面を打ち、キロンの左手を中心に素早く回る。  キロンの正面に、時計回りの円を描く紐の壁が広がった。  これで、少年は迂闊に正面に飛び込むことができない。  空気を切り裂きながら回る鞭の壁は、触れる者を拒絶し弾き飛ばす。  更に、飛び道具である爪楊枝も弾き、防ぐことができるのだ。  これが今のキロンにできる精一杯の防御策。  ……そして、キロンはじわじわと前進する。少年を壁で押し込んでしまうように、プレッシャーをかける。  ヒュンヒュン唸る鞭に迫られ、後退する少年。  後ろを振り返る。このまま後退していくと、やがて岩壁に追い詰められてしまう。  少年は困った顔をして、鞭の壁越しにキロンに話し掛けた。 「ねぇねぇ。」 「……。」  キロンは少年を冷たい視線で睨み返し、容赦なく鞭を唸らせる。 「君の名前教えてよ。ねぇ。」 「……。」 「仲良くなりたいんだ。いいでしょ。……仲間になろうよ。」 「……。」 「やっぱり怒ってる? ……ごめん。でも、僕だって生き残りたいんだよ。この狂った世界は嫌だ……。」 「……。」 「遺言とかさ、カウントダウンとかさ、ふざけただけなんだよ。……許して。」 「……。」  キロンは腸を煮やしながら、少年の怯えた顔を睨む。  ――私の心理を揺さぶろうって? ああ、気持ち悪い。大が100コは付くぐらい嫌いだわ。 「お願い。何でも言うこと聞くから。ね?」 「……。」 「あ、腕……誰かにやられたの? 治してあげよっか? 僕、できるよ。」 「……。」  ――嘘を吐け。私の腕はもう死んでる。凄腕の治療師にだって治せないことぐらい分かってる。  少年の背中が岩壁に触れた。これ以上後退ができない。  このままでは眼前に迫る鞭の壁に飲まれてしまう。 「き、君の気持ち、分かるよ。僕もこの世界が大っ嫌いだ。」 「……。」 「ぼ、僕も壊したいんだ、この世界を。ゴッディアのやり方には大賛成だよ。」 「……。」 「で、で、でも一人は嫌だ。仲間が……友達が欲しくて……ね……。」 「……。」  鞭の壁が、迫る。 「お願い、お願い……助けてっ!」  少年は悲鳴と共に、黒いローブに身を隠した。  キロンは少年の一切の命乞いに耳を貸さず、容赦無く、鞭を打つ。 「悪いけど、アンタみたいなの、大ッッッ嫌いなのよ!!!」  空気を切り裂く鞭の紐が、少年のローブを打った。  バチッバチッバチッバチッバチッ!!  鞭の嵐は少年を押し潰し、黒いローブをひたすらに打ち付けた。  キロンは鬼のような形相で左手を闇雲に振るう。何度も何度も、蹲る黒い塊を打つ。  少年は逃げ場も与えられず、鞭の乱打に飲み込まれて揉まれ続けた。  打撃の数が100を超えたかという時、鞭の音は鳴り止んだ。  キロンの足元には、ボロボロのゴミ袋のようになった黒い塊があった……。  キロンは鞭を投げ捨て、左手でボロボロのローブを取り払う。  ――意識は無いだろう。  そう思い込んでいた。  ドスッ。  ……と、ローブの下から伸びた腕が、キロンの腹部を殴った。 「ッッ!!」  キロンは腹を押さえる。  ……まさか。 「……痛かったよ。痛かったけど、僕にはこれがあった。」  ボロボロの少年は立ち上がった。  そして、痛みを堪えるキロンに向かって何かを見せ付けた。  それは開かれた扇。大きめで、黒く、美しくも禍々しい模様が彫られている――鉄製の、護身用の鉄扇。  少年はそれを隠し持っていたのだ。  ――おそらく、ローブの下で広げ、鞭の衝撃を防いだのだろう。  キロンは危機を悟る。そして、投げ捨ててしまった鞭に手を伸ばす。  しかし、キロンがそれを拾い上げるより早く、少年の手がそれを手繰り寄せてしまった。 「ハハハ、アハ、アハハハハハハ!!」  そして少年は狂ったように笑い出し、鞭をしっちゃかめっちゃかに振り回す。  ビシッ、バシッ、と痛々しい音が響き、キロンの身体にいくつもの赤い筋が走った。  やがて、キロンは傷だけになり、膝立ちのまま動けなくなる。  切り裂かれた服に血が滲む。  少年は、鞭を構える。  その手から黒い魔力が滲み、鞭全体に伝う。  キロンは顔を上げ、ぼやけた視界で少年を見る。  ――彼の表情は、今までで一番残忍だった。 「君とは本当に仲良くなれそうだったのにね。残念だなぁ……。  ……で、結局遺言は無いの? これが最期のチャンスだよ。……聞いてあげる。」  キロンは、ゆっくりと口を開いた。  掠れる声で捻り出した一言だったが、それに、キロンの憎しみの全てが篭められていただろう。  ――全部、大ッ嫌い。  少年は、それを聞き届けた後、鞭を振り被る。 「……言い忘れてたけど。」  そして、膝立ちのキロンの身体に一振りした。 「僕は、鴉。君の事は覚えておくよ。」  まるで、悪魔の唸り声のように鞭の音が轟く。  描く軌跡の鋭さは“叩く”というよりも“斬る”という精度。  キロンの左肩から右腰までがばっくりと裂け、鮮血が吹き上がった。  キロンは地面に仰向けに倒れた後、何度か痙攣し――そのまま動かなくなった。 「全てを憎んだ末に果てた、お馬鹿なメスが居た……ってね。面白かったよ!  アハハ、アハ、アハ、あは、ははは、ははハはハハハっ!!!」  鴉の狂ったような笑い声が平原に響き渡る。  突如現れた黒きカラス。  その狂気は、大地を荒らし始めた――。 ―――  4月22日 8:15 ―――  中枢の、管理塔の一室。  窓もない、この暗い部屋に囚われた少年。  椅子に座らされている……いや、椅子に縛られている。  それでいて、生気の無い目で目の前の女の顔を見つめている。  その女は近衛兵クインシアだった。  背後に、壁にもたれかかるようにして近衛兵セプタスも佇んでいる。 「そいつが……新しく手に入れた道具かな?」  セプタスが椅子の少年を指してクインシアに尋ねる。 「ええ。そうですわ。すぐ近くをウロついていたところを捕まえましたの。  少年ながら素晴らしい魔術のセンスがありまして……貴方にも興味が?」  セプタスは、普段通りイヒヒと笑う。 「ま、検体にするにはとてもとても丁度イーイ年頃に見える……けど、いいや。  君が好きに使うといいよ、イヒッヒ。」 「そうでございますか。……では、引き続き例の研究を。」  セプタスはドアを開ける。 「イヒヒッ、不可能への挑戦だね。研究者として燃えるし燃えるよ。  神より賜った眠らなくても死なないこの身体……大事にしないとね。イヒ。」 「ええ。偉大なる神に感謝を。」  セプタスは退室する。  クインシアは椅子に縛り付けた少年に顔を近付け、頬に優しく手を当てる。  少年はクインシアの瞳を見つめた。  まるで彼女に心酔するように、瞬きもせずに彼女だけを見つめる……。  クインシアはクスクスと笑う。そして、少年の瞳と自身の瞳を合わせ、甘く暗い声で、ゆっくり言い聞かせるように口を動かす。 「大事な人を失った辛さ、身に染みまして? 生きている限りその辛さからは逃れられない。  この世界は貴方の敵ですよ。……壊しましょう。滅ぼしましょう。その手で。……迷える子。」 「……。」  少年は表情一つ変えなければ、微動だにしない。  しかし、どこか心を揺さぶられたらしい。瞳が何かで潤みだした。 「さあ、わたくしに教えて。……貴方の記憶の中の人を。  勇ましく戦った彼の姿を。別れ際に見たその背中を。神に抗いしその者の名を。」 「…………。」  少年は、ゆっくりと口を開きかける。脳の中で、何かの感情と何かの感情が戦っているようだった。 「その者こそが世界の敵。貴方に授けましょう、決別する勇気を。  ……さあ、その人の名前は、なぁに?」  クインシアは蕩けるように甘い口調で、少年の瞳を通して脳を直接揺さぶった。  少年は瞳から一筋の涙を零し、……問いに答える。 「…………ノ…………ア……………………。」  答え終わると、少年はガクリと項垂れた。  それを見届けるクインシア。 「ご苦労様。可愛い可愛いわたくしの子。」  クインシアは立ち上がり、合点がいったように頷く。  ――ノア、か。  その名前は今までの報告で度々聞いた。  荒野エリアでセクサーを葬った者達。レジスタンスという団体の中で行動していた。  そして、森林エリアでキロン隊及び兵器シーファを破り、ソロと対峙。  ……そして、どうやら今は沼地エリアを経由して湖畔に向かっているとか。  レジスタンスの一員として行動させている、“あの男”からの報告にもあった。  想像以上の実力を持つ男と、その男が信じる仲間達……。 「早めに叩き潰すのが最上ね。」  わたくしに恥を掻かせたイグルス一派。そして危険分子レジスタンス。  ……一つ一つ確実に、その羽をもぐ。  この罪深き大地を浄化することのできる、大いなる力が誕生するまで……邪魔はさせるものか。  クインシアは思考を巡らす。  レジスタンスの急所となり得るのは誰か。  リーダーシップを発揮し、仲間全体を引っ張る存在?  確か、ベイトという男だったか。そこを落とせばレジスタンスの行動力を削げるだろうか。  いや、脅威となるのは治療師の花蓮か。  あの治癒技術がある限り、生半可な攻撃では戦力を落とす事すらできない。  それとも、レジスタンス内部を逆に混乱させられる者はいないだろうか。  常に誰かに庇われる弱者……プレッシャーに弱ければ弱いほど好都合だ。  ……確か、奴らは戦力にも数えられない難民と共に行動していると聞く。  それを利用できるとしたら……?  ――あれこれと思索を巡らす。  やがて、クインシアの中で一つの策が練り上がった。  ……さて、行動の前に。  “あの男”にもう一度確認を取りたい……が、それは控えよう。  想定通りならば、そろそろレジスタンス一行は裏切り者の存在に気付いている頃。  無闇に念話を使えば何かの拍子に見破られる恐れもある。  クインシアは考えた末、連絡を取る人物を選んだ。 “Biaxe様。聞こえますか?”  クインシアは念話で話しかける。  彼はずっと地下研究施設に篭っている筈だ。 “……何?”  念話で、気だるそうな返事が返ってくる。  異世界から来た兵器開発の協力者、Biaxeの声だ。  人知を超えた思考回路で、次々に残酷な兵器を開発している「天才」。 “お願いしたいことがありますの、Biaxe様。” “また、監視か?”  まるでクインシアの言う事を見越したように、Biaxeが言う。 “既に湖畔エリアにも出してるし、さっきデュオに頼まれて4人組の追跡も始めた。  次は何なんだ? ったく、私の『娘』を何だと思ってるんだ……。” “それは失礼しました。……それでも、まだ余裕はあるでしょう?” “まぁそうだが。……で、何処に行かせればいい?”  Biaxeの念話に、クインシアの念話が返る。 “湖畔エリアに向かっている、レジスタンス一行の監視をお願い致します。  ……ちなみに、お願いしたいのは監視だけではありませんのよ。” “何をやらせる気だ?” “わたくしの考えの通りに、攻撃して下さいませ。兵器のテストを兼ねて下さって結構です。” “……遠慮はしないぞ。” “ええ。”  クインシアの計画が、Biaxeに伝えられる。  日は既に高く出ていた。  また、長い1日が始まる……。  第30話へ続く