Another World @作業用BGM紹介:http://www.youtube.com/watch?v=gCmmfqA0m7w(ペルソナ4より、A New World Fool) 第36話.『かつてない非常事態』  4月22日 20:39 ―――  エレベーターの室内に水飛沫が散る。  空間の3分の2が水で満たされた準密室。  水自体の重さで軋み、重量オーバーを告げるブザーが鳴りっぱなしになっている。  ドヴォールは壁に空いた穴の先、そこの水面を睨み、水中に潜ったアサメの動向を探った。  打つ手は他にも色々とある筈だった――しかし彼は仁王立ちをする。  ギニーは彼の後ろで、水を飲み込んでゲホゲホと咽ていた。  そんなギニーを、ドアの隙間越しにホーエーが睨み付ける。  エレベーターの構造の隙間から、エレベーターが昇降するための空間、シャフト内に水が漏れていく。  そのスピードは遅くなく、注がれた水を溜め込むのも限界を迎えていた。  ゴトリと音がして室内が揺れ、隣り合った2基のエレベーターとエレベーターの間が歪み大きな隙間を作る。  そこから、ドバドバと水が流れ出し、徐々に水かさが減っていく。  しかし、それでも十分な時間だった。  刹那、水底から水を掻き分けて、9、10本の細く透き通った矢が水面から飛び出す。  ドヴォールが大斧を払い、腕の間接部の鎧でそれを受け流すが、次に強大な光の束を目にした。  それは先程ドヴォールが打ち消した十字の刃。  運命を歪ませる力が弱まり、何の遠慮も無しに顕現した魔力がドヴォールの額を狙って飛翔する。  ドグシャッ!!  エレベーターの外にいたホーエーは耳を塞いだ。  自分が注ぎ込み、漏れ出してゆく大量の水飛沫を浴びないように中の様子を覗くと、そこにドヴォールの姿は無かった。  室内には、隅っこでガタガタと震えるギニー。その隣のエレベーターの床に、全身がビショビショに濡れながら片膝を床につけて立つアサメの姿があった。  水がゴウゴウと漏れ出したことにより、エレベーターの隙間は更にひしゃげ、人がなんとか通れるぐらいの大きさになった。  ホーエーは急いで中に入り、壁も床も濡れた室内を見渡す。  見ると、天井に大きな穴が空いていた。  エレベーターの構造体の素材については分からないが、おそらく丈夫な金属で造られたであろう天井が、強引に破られたように酷い穴を空けている。  アサメの攻撃で空いたのだろう。ドヴォールはここに弾き飛ばされたのか?  ホーエーが、ギニーの拘束をするかアサメの介抱をするかで迷っていると、メキメキと嫌な音が鳴り響いた。  そしてすぐに、床が傾くのを感じた。 「すぐに外へ出ろ! 早く!」  アサメが腹の傷を庇いながらホーエーに指示する。  ホーエーは言われるがままに、ギニーを放置してエレベーターのドアの隙間に戻る。  震えていたギニーも異常に気付いたようで、ホーエーに飛びつくようにして自分も外に出ようと足掻く。  メキメキメキッ……ガコッ! ガコォッ!  その時、室内が左右に大きく傾いてギニーを転がした。  間一髪で外に逃れたホーエーは振り返り、かつての友人が無様に転げまわり、頭を打つ光景を見た。 「ひっ、はっ、あ、た、助け」  ガコ……ギッギギッ……ガクン! ゴォ…………ドゴォォォォォォォォォォン!!  凄まじい衝撃が音となって基地内を震わせる。  ギニーが泣きながら助けを求める声が、ホーエーの耳にリフレインした。  しかし、彼が取り残されたエレベーターの室内は、彼もろとも目の前から消え失せた。  何かが外れたような音がした後、エレベーターは急降下したのだ。  そして、そのまま最下層にまで落下し、その衝撃で破裂。……響き渡った音が、そう物語っていた。  さっきまでエレベーターがあった目の前のその空間は、上下に広大な昇降路の姿を見せた。  下を覗き込むと、そこは一面の闇。ここが地下空間だというせいもあり、ひんやりとしている。  ここから最下層の物資保管庫までの高さは少なくとも100mはある。  その高さを人間がエレベーターごと叩きつけられたとなれば、どうなるかは想像に容易い。 「……ギニー。」  ホーエーが息を呑み、隣のエレベーターの室内にいるアサメを見る。  落下したエレベーターの隣の構造体には大きなダメージがあるものの、落下するまでの衝撃は無かったようだ。  アサメも全身がずぶ濡れではあるものの、極めて平静を保っているように見えた。  そんなアサメはホーエーとは逆の方向、上の空間を見上げていた。  ホーエーもそれに従い上を見上げる。  下に広がっている光景と同じく昇降路が剥き出しになっており、一切光が射さないためにどこもかしこも真っ暗闇だった。  ぶらぶらと揺れる、切れた何本ものワイヤーロープ。これが機械で上下することによりエレベーターが動いていたのだ。  その内の一本に、体格の良い男が片腕でぶら下がっていた。もう片方の腕には大斧が握られている。  ――オル・ドヴォールだ。  暗闇の中目をこらすと、その男はこめかみから血を流していて、アサメの魔術により負傷したことが分かる。  しかしそれであっても片腕でロープにぶら下る事のできる筋力と体力。  ホーエーからしてみれば、十分に人間の姿をした化け物だった。  ドヴォールは斧を背中のバンドに収め、両腕を使って器用にロープを昇る。  それを追うようにアサメはすぐさま魔術で天井に穴を開け、そこによじ登った。  しかしドヴォールの動きは俊敏で、そこからでも武器が届くほどの距離には詰められない。  アサメがナイフを手に取ると、ドヴォールは瞬時に斧に手をかけた。  そしてアサメがナイフを投げる。狙いは鋭くドヴォールの胸元に伸びたが、ドヴォールは斧でそれを弾き返した。  床に二本足で立っていた時と変わらない、如何なる攻撃にも屈しない力強さを、その男はロープに掴まりながら発揮していた。  アサメが腹を押さえて膝を付く。  斧で打たれた際の傷から出血が続いているのだ。服が水で濡れているせいで気付かずにいたが、とうとう体力に影響が出てしまったようだ。  投げナイフ程度では対抗できない。ワイヤーをよじ登って追い着いたりでもしない限り、ドヴォールに自由を許してしまう。  しかしアサメにはそれが無理だ。  ――だったら、他の人間がやればいい。  そう言わんばかりにワイヤーロープに飛びつき、ドヴォールを追うように素早く昇る人影が現れる。  動物のようにすばしっこく、慣れた手付きでロープを辿る少女。クルミであった。  先程のエレベーター落下が基地全体に異変を知らせたのだ。  早速現場に駆け付けたクルミは、敵が逃走しているのを見るや否やホーエーを押しのけ、突撃していった。  ドヴォールが片手でロープを手繰り斧を構えるならば、クルミは両手でロープを手繰り、口に剣の柄を咥える!  猫? いいや、彼女は人間なのだ。  勘違いするのも仕方ないほどに、彼女は俊敏で、器用。  数本垂れたロープをくるくると乗り継ぎ、口に咥えた剣でドヴォールに攻撃を繰り返す。  ドヴォールの横のロープを手繰って上に昇り、別のロープに移って下に降りる。  流石に、腕を使って剣を振るうほどの安定感はないものの、クルミがドヴォールの横を通り過ぎる度に少しずつ傷を与えていく。  ドヴォールは?  片腕で大斧を振るい、クルミを振り払うように暴れる。  彼はすぐに逃げ切れると思ったのだろう。時間と共に、焦りが表に出始めた。  当然ながら、地面に両足の付いた状態で戦えば、クルミが一撃で叩き切られる程の実力差。  しかしここは不安定なロープの上。  森林でゴッディアの追っ手相手に、樹木を乗り継ぎながら戦ってきたクルミの力がフルで発揮できる場であった。  ガッ、ガキッ、キンッ、ガンッ、ガキィン!!  剣と斧がぶつかり合う音が続く。  ドヴォールは口に入った、額から流れ落ちる一筋の血を舐め取り、クルミを強く睨む。 「こんな小娘が、な……面白い。だが……」  クルミはドヴォールの瞳を見、背筋にぞわりと寒気が走った。  次の瞬間。クルミは下に引っ張られる感触――重力を感じた。 「ん……んむっ!」  クルミは口に剣を咥えたまま悲鳴を上げる。  彼女が掴んでいたロープがどこかで千切れ、奈落へと落ちようとしていたのだ。  クルミは急ぎ、別のロープに飛びつこうとする。しかし手の届く範囲にしがみ付ける場所が無い。  止むを得ず、クルミは口に咥えた剣を離し、ロープと一緒に落とした。  そして彼女は落下しながら壁を蹴り、身体を丸くし、開いたエレベーターのドアへと飛び込む。  そこにはホーエーが立っていたので、盛大に激突したのだが。 「うわっ! ……いてて、ク、クルミちゃん……。」 「にゃっ!? はわっっ、ごめんなさい、ホーエーさん!」  重なるように倒れる2人だが、どちらにも怪我は無い。  それよりも問題なのは、ドヴォールを追い詰める手段が今度こそ無くなってしまったことだ。  ドヴォールは、下の空間からこちらを見上げる敵対者達を見下ろす。 「俺を呪う運命は強固。その程度では、打ち破れはしない。」  無表情に、どこか残念そうに言い放った後、ドヴォールは更に上層へとよじ登る。  エレベーターの構造体の上に立つアサメは、腹を押さえながらドヴォールを見据えた。  クルミが戦っている間に、落ち着いて体勢を立て直すことができたようだ。  手の中にナイフを構える。アサメは答えを出した。  ドヴォールを倒すには、体力も腕力も要らない。  必要なのは―― 「運命だと? そんなもの、切り開かれた“可能性”には如何なる意味も示さない!」  アサメは目を閉じ――“何も考えずに”そのナイフを放る。  ナイフは与えられた運動エネルギーのまま、本能のまま、ひとつの可能性に向かって刃を突き立てる。  ドヴォールは今更だと言わんばかりに、斧でそのナイフを弾き返した。  投げナイフ如きでは彼を止められないのだ。  しかし直後、アサメの投げたナイフは加速し――思いもよらない軌道を描いた。  壁に数回跳ね返り、金属音を乱反射させた後、ブチリと1本のロープを切断した。  ――それこそが、ドヴォールが掴んでいたロープだった。  いくらロープといえどもエレベーターを上下させるだけの強度を持つワイヤーロープ。  それが綺麗に切断されるほどに、鋭利な可能性。  ドヴォールは成す術も無く落下していく。ギニーを飲み込んでいった、奈落へと。 「フ……ハハッ、素晴らしい……!!」  その一瞬、ドヴォールはかすかに笑った。  狩人のような瞳でアサメを見つめ、落下しつつ大斧を振るった。  その一撃はアサメの頭上1センチを掠める。  最後の反撃もままならず、ドヴォールは地下の深い闇の中へ吸い込まれていった……。  アサメがその様子を見届けた後、不吉な音と揺れが発生する。  ガコン、ギギギ……。  それは直前に聞き覚えのある音。ギニーの乗ったエレベーターが軋み、落下する際の音だ。  アサメは焦りながらも皮肉に笑う。 「あの男……道連れが欲しいのか。」  ドヴォールの力は、運命を歪める。  最後の最後に、アサメはその運命に巻き込まれようとしていた。  アサメの両足には力が入らない。不気味な摩擦音と共に傾きゆく構造体の上で、どうすることもできない。  ギギギ……ゴガッ、ガガッ!!  構造体の傾きがシーソーの如く揺れ動く中、アサメは足元の少し下、開け放たれたドアの辺りを見た。  小柄な女の子が、こちらに向かって手を伸ばしていた。 「アサメさんっ!」  クルミが差し伸ばす小さな手。しかしまだ距離が届かない。足を踏み外しそうなほど前に出ているのに。  このままでは一緒に落ちてしまう。クルミのもう片方の手を、ホーエーが掴む。  アサメは力を振り絞り、クルミの手を取ろうと前に出る。  その瞬間――エレベーターを支えるロープが、完全に引き千切れた。  ガコンッ、ゴゴゴォ…………ドゴォォォォォォォォォォン!! 「あ……あ……あぶなかったー……。」  ホーエーが座り込んで、胸を撫で下ろす。  エレベーター前の床に、ホーエーとアサメ、そしてネコがいた。  クルミがアサメの手を取ったはいいが、ホーエーは2人の体重を支え切ることができなかった。  3人揃って落下しようとする瞬間、クルミがネコに交代。念動魔術でホーエーの身体を支え、安全に復帰させたのだった。 「はー……もう、クルミの無茶に付き合うのも大変なんだよ、全く……。」  ネコはぶつぶつ言いながら、エレベーターがあった空間の奈落を見る。  結局、エレベーターは2台とも落下してしまった。これからどうやって上下の層を移動すればいいのだろうか。  そんなことを考えていると、ネコの精神の中でクルミが騒ぎ出した。 『お寺! お寺! ちょっと代わるにゃ、もう!』 『……いいから休んでてよ。』 『ちょっとだけだから! アサメさんに言いたいことがあるの!』  ネコはもうひとつ溜め息を付くと、瞬時にクルミと交代した。  ホーエーはその光景に慣れたようで驚かなかったが、アサメは珍しいものを見る目でクルミを見た。 「アサメさんっ!」 「……何だ?」 「どうして一人で戦おうとしたの! 危なかったにゃ!」 「どうして、ってな……。私しか動ける者がいなかったからな。」  アサメは口ごもる。それが本心ではないことは、すぐに見抜かれた。 「嘘にゃ。アサメさん、嘘ついてるにゃ。」 「……。」  クルミに問い詰められ、動揺がホーエーにも伝わったようだった。 「僕らを信用できませんか、アサメさん。……確かに僕らは今日会ったばかりで、余所者ですけど。」 「こんな時ぐらい、一緒に戦わせて欲しいにゃ。もう、仲間なんだから。」  違う、そうじゃない。  それをアサメは口に出来なかった。  何故ならアサメは、基地内に裏切り者がいると推測をしているのだから――この目の前の2人も例外ではない。  信じたい。しかし、仲間を想うからこそ信じることができない。  ……それにアサメは、心の何処かで不安を感じていた。  自身が失った記憶。その正体がもし、とんでもないものだったとしたら。  手厚く関わってくれた湖底基地の仲間を、逆に裏切ることになってしまったら……と。  だから彼は、肝心な所で仲間に頼ることが――どうしてもできない。 「……私も焦って先走ってしまった。今後は気をつけることにするよ。  とにかく皆を集める。これは、かつてない非常事態だからな……。」  アサメはよろよろと立ち上がり、エレベーターの底に落ちた2人を思い起こす。  エレベーターが最下層に衝突したとしたら、2人はそこに閉じ込められたことになる。  湖底基地の一番下、物資保管庫に。  ギニーはともかく、ドヴォールはまだ死んでいない……アサメは、そう確信していた。 ―――  4月22日 21:12 ―――  エレベーターは使えなくなったものの、湖底基地には非常階段が設置されていた。  エレベーターの隣に隠し扉があり、そこから上下の層を移動できることはできる。  ただし、本当に非常用の為に突貫工事したものであり、建築基準法を思いっきり無視している為に不安定。  それに、湖上の見張り小屋と最下層の物資保管庫までは階段が続いていないのだ。  そんな安全性に疑問のある非常階段を使い、すぐに会議室に全員が集められた。  混乱が走る中、状況の確認。  事情をよく知るアサメなどが中心に、現状の説明が行なわれた。  一番の衝撃だったのは、ノクスの死。  運命を歪ませるという侵入者、オル・ドヴォールの能力の犠牲となった尊い命。  ノクスの亡骸は運び出され、個室のひとつに安置された。  このような緊急事態では、落ち着いて弔う事もできない……。  ノクスの死に居合わせた当人、ノアとスレインは、花蓮とエガルに足を診てもらっている。  ドヴォールの能力によるものなのか、2人の足の筋肉は硬直してまともに歩けない状態になっていた。  時間が多少経過した今は症状は和らいでいるが、どういった対策を取ればいいのかは全く分からないままであった。  そして、最大の問題。最下層の物資保管庫に落下したオル・ドヴォールをどうするか。  まず誰かが、下層に爆発物を落下させればいい、と発言をした。  保管してある物資にもダメージはあるだろうが、ドヴォールを安全に仕留めるにはこれが最善……と、皆が思った。  しかし、アサメとスレインは首を横に振る。 「この基地内にある火器だが……俺が持つ手榴弾が数個、それしかない。」 「やられたよ。……根こそぎ、な。」  アサメは基地内の全ての火器を確認した。見張り小屋の惨状を見て感づいた為だ。  案の定、見張り小屋に置いていた兵器に限らず、湖底基地内のありとあらゆる火器、武器、爆発物が使用不能に陥っていたのだ。  そのどれもが着火に必要な部分を破壊され、水のような液体を浴びせられ湿気らされていたという。  それに、破壊されたのは火器だけでは無かった。  非常事態を告げる筈のブザーも壊され、鳴らなくなってしまっている。  そのせいで、応援が駆け付けるのが遅れたのだ。 「どういうことだ? 火器の管理は、お前達に任せていたよな……?」 「ティア。……内部にいるんだ。ゴッディアに通ずる、裏切り者が。」  不審がるティアに対し、アサメが断言する。  裏切り者の存在を、全員の前で。  こうなってしまっては、仕方が無いのだ。秘密裏の調査も全て、意味が無い。 「それって、ギニーの事じゃあ……。」 「いいや、ギニーの他にもいる事は間違い無い。……火器の破壊工作は、ギニーが裏口でドヴォールを招き入れている間に行なわれた。  そう考えた方が自然だろう。」  ゴッディアに内通している、誰かが基地内に――。  会議室にどよめきが広がる。  緊急事態に、疑心暗鬼。侵入者を倒す為に団結が必要なのに、それを乱す黒い影。  レジスタンスは共に戦う仲間なのに、互いを完全に信用することができなくなる……最悪の状況。  ノアが危惧していた事が、現実になってしまっていた。  グー……。  突然、気まずさが支配する室内に不似合いな音が鳴った。 「……何、今の音?」 「え、斬燕くん?」 「……お腹、すいた……。」  それは斬燕の腹の虫だった。緊張感で張り詰めていた会議室の雰囲気が、ほんの少しだけ和らいだ。  確かに、10歳前後の子供にとって難しい話はよく分からないだろうし、時間帯も時間帯。育ち盛りの子供が小腹の一つや二つ減らしてもおかしくはない。  夕食として用意した食料も、万が一に備えて控えめにしてあったこともある。 「おやつ程度になるもの、持ってきますね。」  リスナが気を利かせようと、退室ようとした時、彼女は大きな問題点に気付く。  食料の管理は死亡したノクスが行なっていた。大切な同士を失った辛さはあるが、それどころではなかった。  食料の備蓄は厨房に少々ある。しかしそれは一部であり、残りは全て物資保管庫に置いてあるのだ。  つまり最下層に降りれない今――というより、最下層にドヴォールが閉じ込められている今、食料を取りに行く事ができないという問題も発生していた。  ドヴォールが生きていたとしたら、保管庫の食料を自由に食い荒らされてしまうかもしれない。  兵糧攻めでドヴォールが餓死するのを待つことすらできないことになる。 「……マズイ、な。思ったよりも。」  ティアは頭を抱える。  既に試した通り、ドヴォールにはエリアキーによる追放が効かない。奴に運命を歪める能力がある限り。  爆発物をぶち込む安全策も、飢えさせる持久戦も、不可能。  やはり、実力で撃退するしか方法は――無い。  問題の最下層までは、降りることは出来ても昇ることは難しい。エレベーターが使い物にならないのだから。  つまりドヴォールを倒すには、命懸けの特攻が必要となる……。  不意に、アサメが立ち上がった。  濡れた服は着替えられ、腹部の傷は手当てをされている。体調は万全では無いはずなのに、力強く振舞っていた。 「急いで取り掛かるしかあるまいよ。……私にしかできないのだから。」  それだけ言って、部屋から出ようとするアサメに、ティアとクルミが声を荒げて止める。 「おい、アサメ? 何処に行く気だ。」 「また一人で戦うつもり!?」  アサメはドアを開けて振り返る。そして、もう決めたと言わんばかりに堂々と語った。 「私はエレベーターの修理をする。……といっても、簡単な手動のリフトのようになるだろうが。  この基地に一番詳しい私がやるべきだろう。最下層に続く、突入する道を作ってやる。」 「エレベーターの、修理……? まさか、出来るのか?」  最下層へ安全に降りることが出来るなら、ドヴォールとの戦いに臨む事ができる。  この基地を上下に移動できるルートを確保できることは、願っても無い事だ。 「明日の……昼。それまでに完成させるさ。それまでに、奴に対する対策を固めてくれ。」  どうやらアサメは、もう自分から戦うことはしないようだった。  エレベーターを直し、侵入者の排除を託す。湖底基地に集った、レジスタンスの仲間達に。 「ああ。……任せるよ、アサメ。」  ティアは基地の事に関して、アサメより詳しい者はいないことを知っていた。  だから彼の態度を見て、すぐに彼に一任することを決断した。 「とりあえず、簡単でいいから全員武装しておいたほうがいい。幸い、剣や鈍器の類はまだ使える。  隣の部屋にまとめておいたからな。」  アサメはそれだけ言うと、会議室を出て行った。  クルミも、自分の剣をエレベーターのシャフトに落としたことを思い出し、代わりの剣を取りに行く。  とりあえず会議室に集った一同は、表向きは解散となった。  ――今後の侵入者の動向に要注意、という形で。  しかし誰も部屋から出ようとはせず、今後の事についてそれぞれ話し合っていた。  それも当然、ゴッディアの部隊長が足元の下にいるのだから、安心して休める訳が無い。  戦いの対策を練り、有効な戦法を考え……裏切り者の正体についても探り出す。  俄かには信じられない。本気にしていない者だっている。まさかこの中に、本当に裏切り者がいるなんて。  ひょっとしたら、ノアやアサメの杞憂じゃないか。この侵入者騒動も、全部偶然じゃないか……そう思い込めれば、精神的には楽だった。  そして、潜む裏切り者の影に隠れ、ギニーの存在はとても小さくなっていった。  彼の起こした行動は、あまりにも罪深いというのに。  オル・ドヴォールという強烈なインパクトを放つ侵入者に比べ、警戒するにも至らないレベルだからなのか。  彼の事を常に気にかけているのは、ホーエーのみであった。  ホーエーは会議室の片隅で、壁にもたれかかって腕組みをしていた。  気難しい顔をする彼にピーターは視線を投げるが、応じる様子は無く自分の世界に入っていた。  この戦乱の難民として、平原エリアから共に過ごしてきたホーエーとギニー。  互いに依存し合うだけの漸・リリトットとは違い、彼ら2人は友人のように楽しく語らってきた。  大した戦闘能力は無いけれど、ゴッディアの侵攻に怯えていただけだけれど――いつも励まし合ってここまで来たというのに。  ギニーはレジスタンスを裏切っただけではない。友人のホーエーをも裏切ったのだ。  ただ自分が生き残りたいが為に。  ホーエーはかつての友の心境を想像する。半分に共感できて、半分は理解できなかった。  確かに死ぬのは怖い。傷付きたくは無い。できるだけ楽な方法で生き延びたい。その気持ちはよく分かる。  だけど、だからといって、今まで命をかけて守ってくれた仲間を裏切ることはそう簡単にできるわけがない。  ……できないよな、きっと。ホーエーは自分に言い聞かせるように言葉を飲み込んだ。  誰か悪意ある者が、もしくは何かの現象が、ギニーを操ったのではないか。  「魔が差す」という言葉があるように、ギニーの心に入り込んで揺さぶった悪魔がいるのでは……。  ホーエーは天井を見上げ、ギニーの最後の言葉を思い出した。  ぐしゃぐしゃに萎れた表情。怯えた目。掠れた悲鳴……裏切り者の末路としては十分な姿。  ギニーは弱い人間だ。心だけでなく身体も。  エレベーターと一緒に最下層に落下したならば、無事であるはずがない。  できることならば生きていて欲しい。そして、あんなことをした本音を聞きたい。  ギニーの弱さも何もかもを理解して、最後に思いっ切り殴って――赦してやりたいのに。  ―――  最下層に落下した2基のエレベーターはペシャリと潰れ、シャフトの空洞に、壁にもたれ掛かるようにして佇んでいた。  飛び散った瓦礫がコンクリートをボロボロに傷付け、粉塵が空間内に充満している。  空洞を上に数メートル昇ると、そこに開け放たれたドアがあり、そこから物資保管庫に通じる通路に入れる。  ドヴォールは全身を蝕む傷の痛みに耐えながら、静まり返った最下層を歩き回る。  その腕には、ギニーが抱えられていた。  そのポジションはドヴォールの侵入時と同じだが、先程のようにヒィヒィ悲鳴を上げていたギニーの様子とは全く違う。  四肢をぐったりと垂らし、抱えられるまま頭を揺らしていた。  ドヴォールは落下してから、エレベーターの残骸内にいたギニーを引っ張り出した。  落下の衝撃をモロに味わった筈のギニーは虫の息で、全身を血塗れにして横たわっていた。骨もグシャグシャに折れているのだろう。  むしろ、即死じゃないのが奇跡のようなものだった。  鍛えていない一般人ならばこうなるのが当然であり、全身を負傷しながら平然と動けるドヴォールが異常なのだ。  ギニーは途切れ途切れの意識の中で辺りを見渡し、血の混じった咳をして呟く。 「ここは、物資保管庫か……食料も、薬とかも、大量にあるはずだ、ぜ……。」  それはギニーが知っている限りの情報であり、ドヴォールに対する精一杯の会話。  彼は朦朧とした意識の中で、2人がこの最下層に閉じ込められた事実をまだ理解できずにいた。  だが1つだけ、ギニーが茫然と悟った事実がある。  それを確かめるように、いや、否定してくれるのを祈るように、ギニーはドヴォールに会話を求める。 「俺、……生きてる、よな?」 「……。」  ドヴォールは無言を貫きながら、保管庫を探索する。  確かにギニーは“まだ”生きているのだが。  ドヴォールが保管庫の扉の1つを開け、そこが日用品置き場だということを確かめると、舌打ちをした。  ここに出口が無い事を、彼は薄々分かってきていた。  不意に、どさりと。腕の中からギニーの身体が零れ落ちる。  それと同時に紅い雫がビチャリと床に飛び散る。ギニーの身体が有り得ない角度で折れ曲がっている事を示すかのように。  ドヴォールはもう、彼を拾い上げようともしなかった。 「……怖ェよ…………ゲフッ、あ、あんた……みたいに、つ、強けりゃ……  ……死ぬ、恐怖なんて、か、感じずに…………済むのか……よ?」  半身を仰向けにしながら吐血混じりに、ギニーは突拍子の無い事を叫び出す。  ヒューヒューという乾いた喉の音と一緒に、行き場の無い感情が吐き出される。 「分からねぇ……分からねぇよぉ…………神ってやつは、……ふ、不公平だ…………ゲホゲホ、ゲェッ!!」  最期、ギニーは大きく全身をビクリと痙攣させて、赤い液体を大量に吐き出す。  そして、現世に残した後悔の証を、呟く。 「…………ごめん、な……ホー……エー………… …… …… 」  ドヴォールは、その男の指先から力が無くなるのを見届けた。  あくまでもドヴォールはその男を見下ろす。  それも当然だ。他人にすがり付くだけの、虫けらのような男にくれてやる慈悲は何一つも無い。  この男が死んだ原因はこの男自身にあり、この男はその報いを受けたに過ぎないのだ。  しかし、ドヴォールは神から与えられた指令を1つ、守れなかった。  その事実は間違いなく、彼の中の何かを強く揺さぶった。 「これが、運命……か。……。」  運命を歪ませる能力すら、ギニーの死を捻じ曲げる事は叶わなかった。  ドヴォールはここに来て、自身の未熟さを思い知る。  一時、指令の遂行を忘れ、一対一の真剣勝負に心躍らせてしまった事。  運命を打ち破れる可能性を持った男、アサメと出会って芽生えた感情。  ゴッディアの部隊長として、恥ずべき事だった。  夜も更ける。  物資が潤沢なこの最下層には生者がひとり、死者がひとり。  誰も立ち入れず、誰も脱出できない奈落の袋小路にて、無機質な鬼人が目覚めようとしていた。  第37話へ続く